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ほほえみだより

 

  〜 No.57

素材を見るとたくさんのアイデアが湧いてくる

  料理人 道場六三郎 さん

若くして一流料亭のチーフという、料理人の頂点を極めながら、そこにとどまらず、独白の哲学で和食店を開いて、たくさんの人においしい料理を提供し、一方で、黒ゴマフリンのようなコンビ二商品やスーフの商品開発も手がけ、テレビや雑誌用レシピも作ると、八面六背の活躍をする道場六三郎さん。そのいきいき人生にあやかりたいものです。

「ぼくは、元気で明るくて、ええ子やったんですよ」
少年時代の道場六三郎さんはクラスの人気者で、おもしろおかしく話を聞かせるので周りにはみんなが集まり、誰かがガラスを割れば、代わりに「ぼくがやりました」と名乗り出る侠気もあったとか。もっとも「ワシントンの桜の枝の話を読んで、まねしてみただけなの」とご本人は苦笑。近くの白山御社のお祭りで、同級生とふたりでりんごを買ってきて売ったのは小学5年生の時。仕切っているとおぼしきその筋の人から「誰の許可でやった」とにらまれたが、すぐ売り切れたので、無事だったとか。実行力と才気はこの頃から花ひらく予兆があったようです。生家は石川県山中町の塗師屋。三男坊の道場さんも、山中塗りの漆器をつくる家業の手伝いで、朝夕漆を掛けたり木地を磨いたりしたそうです。漆器はほこりを嫌うので、静かに座って仕事をします。 
「ところがぽくは飛び回るほうが好き。魚屋になりたかった」
15歳で終戦を迎えた六三郎少年は、浜から買ってきた魚を自転車に積んで山中温泉の旅館に売り歩きました。たちまちお金を稼ぐようになり、それでいっぱし遊んでいたら、旅館の主人に「手に職をつけろよ」と諭されました。こうして東京・銀座の料理屋に19歳で修業に入ることに。昭和25年、街には笠置シヅ子の東京ブギウギが流れていました。 
「出たら3年は帰ってきてはいかん。石の上にも3年だ。その辛抱ができないようなら塗師屋になれ」
東京へ行く道場さんに、お父さんが言った言葉です。「塗師はいやだったから覚悟を決めて上京したねえ」と道場さんは当時を振り返ります。修業時代をそう辛かったとは思わないそうです。こうしたら早くできる、こうしたらきれいにできると工夫をして進言するたびに、親方からは「言われた通りにやれ」と叱られたそうです。とはいえ肝心な時は決して外さずに一心に働き、ヒマを盗んで裏へ出て10分、20分と眠ってしまう特技もありました。
「すばしこくて要領がよかった。それに、ぼくの機転は日本一」
野菜でも魚でも、手に取るとたちどころに料理のアイディアが5つ6つ浮かぶそうです。それは技術であり、経験であり、長年培った味覚の賜物でもあるのでしょう。 73歳とはとても思えないお元気な道場さんですが、最近はぐっすり眠れなくなったとのこと。そんな夜は、起きてゴルフのバターを練習したり、メニューづくりの筆をとったりするのだそうです。
「数年前から、毎年年頭に、禁酒と書初めをしていたんだけどダメだったのに、今回はなぜかスムーズに止められた」
飲めば1升5合も飲んだお酒を止めても、ムリしてがんばってというわけではないそうです。